バンジャマン・フォンダーヌについての覚書

再びバンジャマン・フォンダーヌについて調べなければならないと感じている……。とはいえ、フォンダーヌは放浪する「ユダヤ」ないし「ユリシーズ」という印象が強いので、そこをどう脱臼させるかがポイントかと。

ツァラの二年後に生まれたこの詩人は、ツァラとの共通点が少なくない。しかし、ツァラが自らの「ユダヤ」について積極的に語ったといえないのに対して、バンジャマン・フォンダーヌは「ユダヤ」について語っており、らい病や移民といったテーマから語ることが可能であろう 。バンジャマン・フォンダーヌにもまた「らい病患者の詩篇 Le psaume du lepreux」という、らい病に関する詩がある。

内山憲一は、バンジャマン・フォンダーヌが「自分を徹底的に汚いものとしてみな 」したと述べたが、彼もまた、自らを「汚れたるもの」と呼ぶ宿命を課せられた詩人であった。そして、詩の中のらい病患者は、神という「絶対」的な存在に哀れみと救済を求める。

Aie pitie de moi, o Seigneur, aie pitie ?
et si tu peux, purifie-moi de la maladie.

私を哀れんでくれ、ああ神よ、哀れんでくれ――
そしてもし君が、その病から私を浄化してくれるなら

らい病を癒すことのできるのはイエスである。マタイの福音書には、イエスがらい病患者に触れ「清まれ」と言うと、らい病が清まったと書かれている 。それでは「らい病患者の詩篇」でも、イエスにらい病治療を願っているのかというと、そうではない。むしろ「もし君〔=神〕が望むなら、私の願いを聞いてくれ/私をそのままにしてくれ、浄化しないで」≪ si tu le veux, ecoute mon souhait, / laisse mon etre tel quel, non purifie ≫ というのである。そして「凡庸な死」 ≪ une mort ordinaire ≫ をくれと懇願するのである。

なぜ、らい病患者は「凡庸な死」を望むのだろうか。それは、彼が神との相対的な関わりを結ぶことを意図していたからである。

Je sais bien, Seigneur,
que tu es sain parce que je suis lepreux ?
que nous sommes sortis pareillement du non-etre ?
que mon prosternement te donne de la grandeur,
que mon non-savoir te donne du savoir,
que ma faiblesse te donne de la force,
que ma crasse te donne de la lumiere.

私はよく知っているよ、神よ、
君が健康なのは私がらい病だからだということを―
私たちは同じように非存在から出でたことを―
私の隷属が君に偉大さを与えていることを、
私の非知が君に知を与えていることを、
私の弱さが君に力を与えていることを、
私の垢が君に光を与えていることを。

神の健康は自身のらい病によって規定されるということは、自身のらい病は自分ではないものの健康から規定されるということである。つまり、両者は表裏の関係にあり、決して別々に捉えられる関係ではないものであるということになる。言い換えれば、健康に属するもの――その「内側」にいるもの――は、健康の「外側」――つまりらい病患者――とは無関係ではないということになる。バンジャマン・フォンダーヌの詩は、「らい病患者の詩」における醜さと無力とを抱えながら有限の生の中でもがき苦しむ人間の呪詛の代弁は、無時間的・原初的なるものへの憧憬を歌っているのだが 、それと同じく「内側」と「外側」の相対的な関係性を記述しているのである。それは、ときに現実を超え出てその「外側」から何かを取り決める形而上学について、その「内側」から関係性を取り付けようとする思考なのではないだろうか。

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