未来派的「速度」と21世紀へのアヴァンギャルドの提案

1.速度の表現

1909年にフィガロ紙に発表されたマリネッティの「未来派創設宣言」の4項と8項では、「速度」について次のように言及されている。

 4項、咆哮をあげて疾走する自動車はサモトラケのニケより美しい。
8項、我々は時代の最先端の岬にいる。時間と空間は昨日死んだ。我々は偏在する永遠の速度を創造した。

この2つから導き出される、「速度」の美学の実践として、たとえばマリネッティは自由詩「ザン・トゥム・トゥム(ZANG-TUMB-TUMB)」の中で戦闘中の銃声の表現を試み、バッラは瞬間の表現を試みている。このように、芸術を通じて表される対象が「過去」に属するものから、「現在」起こっている現象へと近づいていったのである。それでは、未来派の芸術家たちは、なぜこのように「現在」に着目した制作を行っていったのだろうか。
「過去」を表現したに過ぎないあらゆるものは「死の集合体」であり、「現在」を生きている人間はそこに入っていくことは不可能である。そこで、マリネッティを筆頭に未来派の芸術家たちは、「過去」という死体に縛られることを嫌い、私たちが存在することの可能な「現在」に目を向けたのではないだろうか。換言すれば、我々が生活している「現在」にあるものについて直視し、今この場に相応しい何かを模索する必要性を感じていたのだろう。つまり、ノスタルジーに耽り逃避せず、また実現性を考慮しない理想ではなく、現在を変革する実践を繰り返す必要があると彼らは説いているのである。この絶え間ない変革を推奨した未来派の「宣言」は今も色あせず、むしろ21世紀的新しさを模索するために大きな効果を発揮するだろう。

2.失われる「私」

未来派のもう一点の特徴は、「私」という主体を破壊したことにある。これは未来派宣言に即した人間の創出のためであった。そして、そのような人間は「機械人間」なのであった。この「機械人間」の創出のために、速度の表現の使用は不可欠であった。
その理由は、1912年5月にマリネッティが発表した「未来派文学の技術的宣言」の中に書かれている。この宣言の中では「我々は部品交換可能な機械人間の創造を準備している」と述べられているが、部品交換を可能にするには、対象との距離を縮めていかなければならない。つまり、加速することによって「現在」への距離が縮まり、その結果<人間対事物>、そして<人間対人間>の距離もどんどん縮まっていのである。最終的には、「私」と他者との距離はゼロになり、自分と誰かの区別がつかなくなる。つまり「私」と他者はある意味で総合された存在になるのである。つまり、部品交換という視点から考えると、「私」の部品(あるいは所有)に他者の部品が加算され、交換可能性が拡大するのである。
もう一つ、「機械人間」の創出のために必要とされたのが、多くの「宣言」である。未来派は1909年から1916年までの間に、50以上の宣言を世に送り出したといわれているが、彼らが宣言という伝達形式に価値を認めていた理由は、宣言が、理念の具体化と共同体全体に操作的かつ私的な座標を与える手段であったからだ。つまり、宣言に共感しその実現に向かって実践的である人間は、グループとして統一的な存在であり、そのような意味でもはや「私」ではない。大衆が加速度的に「宣言」へ取り込まれていくことで、「私」が失われ「未来派」というグループが拡大する。その結果、未来派内における分業が加速し、部品交換可能な「機械人間」はますます創造されていくのである。

3.「速度」がもたらす21世紀の新しさ

以上のように「速度」とそれによって縮まる「距離」に着目したとき、21世紀を生きる私たちの芸術はどのような姿になっていくのだろうか。上述の部品交換可能な「機械人間」の性格がもっとも際だった形で表れているのは、ITだろう。いうまでもなく、インターネットの発展は私たちの生活のオンデマンド化を促進している。回線速度の進化により、必要な部品を必要な分量だけ取得、あるいは付与しているという現在において、私たちはAaという時間・空間にいながら、Bbという時間・空間に干渉することができる。つまり、ITの「速度」が「距離」という問題を解決したのである。このように考えてみると、私たちは既に未来派の提唱していた機械人間であるといえるのかもしれない。
そして、このようにITの発展が加速し続けていくことで、究極的には私と誰かの距離は完全になくなってしまう。他者との距離がなくなった社会では、当然「私」という個人的な性格は存在しない。つまり、「速度」の芸術が私たちを導くのは、アノニマスな社会となる。誰もが部品交換可能な社会では、もはや「私」という名前を持った個人が一人で何かを成し遂げることは重要ではない。重要なのは、「私たち」という個人的な名前が失われる集団の中で、部品を他者と共有しつつ必要に応じて交換する相互依存が成立した社会なのである。このように、「速度」をもったITにより「距離」と「私」が消滅した芸術こそ、21世紀的な新しさを胚胎しているのではないだろうか。

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